deainokotonoha’s diary

出会いと発見 未来と過去は今に生きている

ひきこもりは自然なこと 1.自己分析

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自分の半ひきこもり状態だった頃の体験や思いを掘り起こして、自己分析を皆さんと共有したいと思います。

ひきこもりは日本の未解決な大問題だろう。ひきこもり、という言葉で「ああ、そういうのがあるね。」と一般人が認識できるということは、それだけ多くの人達がひきこもった状態で内面的・対外的に苦境におかれているということを示している。

家庭や教育的環境はそれぞれ微妙に違うから、全てのひきこもりが同じ原因とは簡単には言えないけれども、共通点はあると思う。

そしてひきこもっている人達は異常なのだ、とか、甘えているだけだ、とか、無理に何かをやらせて矯正すればいいとかの乱暴な意見はまずおいておいて、人間の行動にも何かの摂理が働いている……つまり、ひきこもりは自然なことなのだ、というものの見方が 初めに必要だと思う。

なんとか自分なりに克服できたと思う今は、ひきこもりで苦しんでいる本人に対しても、ボクが伝えたい初めのひとことは「きっと大変だったんだね。それでいいんだよ。あなたは間違っていないし、自然なことだと思うよ。」ということだ。

さて一歩踏み込んでみよう。ひきこもりの原因とは、ボクが30年自分の例を解明してみたところ分かったのは、それは、
「自主性がつぶされるか、自主性を十分に育てられなかったこと」に起因する。

小・中・高校の義務教育とトコロテン式の押し出し方式で、たとえどんなに成績が優秀であったとしても、ひきこもることは起こりうる。
教育の要点は「自分で考え、自分から学び、自分で行動し、そして自己責任として結果を受け入れフィードバックして さらに進んでゆけるようになること」だと思う。自主性と創造活動が鍵になる。

ところが現実には 親の言うことを聞きさえすればいいんだ、聞かないなら許さないゾ,(時折暴力と恐怖) 先生の言うことは絶対だ(などという無責任な間違った信念。先生は生徒の人生の責任などとれません)、そしていい大学に入りさえすれば幸せな人生が待っているという誤った幻想の中で 思春期・成長期を過ごすことになる。

特に親や教師から肉体的、精神的、教育的暴力が繰り返しあった場合は重篤で、いちばんひどい場合には 自主性をつぶされる。自主性をつぶされた人は 親の言うことや先生や周りの言うことも比較的素直にハイハイと聞く一見いい子だろうが、人の言いなりになりやすく、自分であっても自分でない半生・成長期を生きるために、16才~25才くらいになると内面に自信がもてなかったり、えもいわれぬ不安感が頭をもたげてきて、よく理由が分からないまま 自分でも説明できない否応ない事情で、自分の体を動かすこともままならなくなる、という訳だ。

子どもが生まれながらに持っている強い生命力は、これからの人生の荒波をたくましく乗り越え生き抜いてゆくために 天から授かった原動力であるに違いない。

たとえれば、ロケットが大気圏を突き抜けようとゴーッとものすごい勢いで宇宙空間にとびだそうとする上昇のエネルギーのようなものだ。

子どもたちや若者たちに触れると、美しくもたくましい若々しい成長のエネルギーに感心する。
その大切な力である 伸びてゆこうとする生命力・自主性をつぶされるか、育たないならば(自力で育てた経験値が足りなければ、急には発動しないだろう)、成人期前後で失速してしまうのは当然なことだし、自然なことなのです。
だから ひきこもりは自然な成り行きから起こっていると ボクは言いたいのです。

ここまで読んで頂き ありがとうございました。

つづく

結城市 ギャラリー&カフェ 壱の蔵

f:id:deainokotonoha:20160704060429j:plain     ギャラリー&カフェ壱の蔵 店内から通りを眺めて

初夏の午後の陽射しがまぶしいある日、木造りの建物が並ぶ 風情ある結城市市街を車で走っていると、カフェを発見した。
ちょっと寄って行きたい気分だった。

向かいの駐車場に車を停めて、美しくレトロなガラス戸をガラガラと開けて店内へと入る。
店名は ギャラリー&カフェ壱の蔵。どうやら蔵を改造したカフェのようだ。店内の両サイドには ライトアップされた布がいくつも展示されている。
あっ そうか!結城市結城つむぎの産地でしたね。
店内は空調がきいていて涼しく、外気の暑さから解放されて ほっと一息ついた。

4人掛けの正方形の机が4~5卓ほどあり、一番奥には近所の常連さんらしき3名様がくつろいで会話をしていた。
「冷たい飲み物はありますか?」と尋ねると、感じの良いママさんが「アイスコーヒーがありますが……」と答え、それを注文した。

冷たいアイスコーヒーを飲みながら ほどよく暗い店内から外の通りの暑そうな陽射しを眺めていると、ウォンさん(ジャズピアニスト:ウォン・ウィン・ツァン)の朗々としたなつかしいピアノ曲が いつの間にか流れているのに気付いて ふと至福を感じた。

ちょっとさびれて来ているけれど、結城市の旧市街の雰囲気は、悪くない。

ありがとうございました。

疲労回復にゴマ食 吉祥寺蒼龍唐玉堂

f:id:deainokotonoha:20160623003125j:plain[f:iddeainokotonoha:20160623003156j:plain]     吉祥寺蒼龍唐玉堂の黒ゴマ担々麺

ゴマは古来より仙人食とされ、中国・朝鮮・日本など東アジアでは不老長寿の食用として珍重されて来たようだ。
脂質50%、たんぱく質20%、食物繊維が含まれている。胃腸を整え、老化防止、強壮作用がある。頭脳の働きをよくし、ビタミンB群は精神を安定させる。その他 不飽和脂肪酸リノール酸、ミネラル類、カルシウムも豊富に含まれる。

このように東アジアではゴマの効用は絶賛されているが、インドではどういうわけか食用には向いていないと判断されている。
アーユルヴェーダの知見によると、ゴマは 消化重性(消化しにくい)で、体内にはいると未消化物質・アーマが発生しやすいとされ、粘着性が高く 体内の通路にたまって通路を塞いだり 組織に沈着して、種々の病気や老化を起こす原因になるという。

東アジア(中国・朝鮮・日本)とインドとの違いは、インドは比較的南方に位置し、食料が豊富にとれたため、ゴマを食用としなくても済んだからではないか?!と自分は想像する。
比べて温帯の東アジアでは ゴマは貴重な栄養源として最大限利用されたのだろう。
高野山永平寺のゴマ豆腐や精進料理には 修行食としてゴマは欠かせないと思うし、韓国料理店でもゴマはトッピングに多用され ゴマ油も料理に重用されている。

……などと考えつつも、吉祥寺を歩き疲れた時には、ついつい美味しい担々麺を食べに 蒼龍唐玉堂に寄ってゆく。オススメは、黒、白、紅、黄の4色のなかでは、断然 黒ゴマ担々麺である。
食べごたえあり、です。

ありがとうございました。

常総市でマダニに喰われた

2016年5月初め、急に田植えを手伝い竹やぶの獣道を通った折り、ダニに喰われた。

半袖姿だったせいか、右手の前腕部に 2㍉くらいの小さな虫が付いていたので とっさに払いのけたが、まったく動かずへばり付いている。何だろう?と思い、まじまじと見てみると、それは2㍉くらいの 真っ黒なカニの様な形をした虫の姿だった。気味が悪くて、引き剥がして潰した。吸われた跡が、 赤い血の点になった。少し血を絞り出した。

ひと月ほどして、地元の初老の男性が草刈りの後ダニに喰われた話をしているのを聞いた。草刈りの数日後、腕に小さなアザの様なものが二つほどできていたが、痛くもかゆくもなかったものの、その中にダニが入っていたのだという。長年地元に暮らしている方だが「ダニに喰われたのは 初めてだ」と語っていた。
近くでその話を聞いていた造園関係者も、ダニに喰われたことはない 気を付けます、と話していた。

幼少の頃、野山を駆け回る日常にダニに喰われたことは一度もなかった。自分も人生において初めてである。調べてみると、どうやらマダニのようだ。近年栃木県でもマダニが発見されている。常総市においてもマダニ由来の感染症には注意が必要だろう。

ありがとうございました。

つくば市のコーヒー豆屋さん トライブ

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つくば市の西大通り沿いにあるコーヒーロースター トライブに入った。
「試飲です。どうぞ。」とスタッフに勧められて小さなカップで淹れたてのコーヒーをいただいた。香りもよく新鮮な美味しさ。

トライブという店名の意味は、そのまま訳すと「部族」となる。センスが光っている。

今後伸びてゆくだろうこのお店の可能性に期待します。

ありがとうございました。

胡蘭成の書 和敬

f:id:deainokotonoha:20160604213925j:plain     胡蘭成の書 「和敬」。彼の書のなかに、時折だが日本的なことば選びがみられることがある。

また この作品には名が抜けているが、名前を書かないことについて「一流の人間であれば、名前を書かなくても分かってもらえるものだ」と胡蘭成は語っていたと伝聞したことがある。書についての自信がうかがえる。

ありがとうございました。

胡蘭成 梅花の書

f:id:deainokotonoha:20160604125530j:plain     胡蘭成の書「幾生修得到梅花」

50年近く自宅の離れの部屋に掛かっている額の字。長い間、梅の花(そのもの)について何か胡蘭成が思うところを書いたのだ と思っていた。

梅花の字が梅の花の意味ではなく、梅花心易(易断の一種)を指しているだろうことに ようやく気付いたのは近年のこと。

祖国を追われ筑波山に隠棲していた時のことだろう。ふと、いったい幾つの人生を生まれ死にすれば 易(梅花)の境地にたどり着くだろうか?!
と胡蘭成の想いが動いた時の言葉だと思う。

50年以上の時を経て、故人の書が時空を越えて語りかけてくる……
そんな妙味が書にはあるのだと分かった。

ありがとうございました。